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【書評というほどでもない感想】ホルヘ・ルイス・ボルヘス「夢の本」 (堀内研二 訳)

 

 

創作にあっては宇宙的短編「バベルの図書館」を物し、現実においてもアルゼンチン国立図書館の館長を務めた、紛れもない”書物の王”であり、更には「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」 において『あらゆる作品が非時間で無名の唯一の作者の作品である』との極点的な─或いは単に真実かもしれぬ─文学観を述べたボルヘス、その人が稀代のアンソロジストであることは、必然すぎる程の必然だと言わねばなるまい。
ましてや彼の仕事の主要なテーマの一つである「夢」のアンソロジーとあっては…、
古今東西の夢に纏わる─或いは夢そのものの─テキストの織り成す夢幻かつ無限の夢のタペストリ、夢の中で更に夢を見、それから覚めたと思えばまたそれも夢、と、正に”夢中の時間”を約束された一冊である。

 

取り分け、「コールリッジの夢」。
フビライ汗は夢で見た幻を基に宮殿を建て、数百年の歳月が流れた後に、英国の詩人が夢にフビライの宮殿を見て詩を書く。
このことは『不滅もしくは長命なるものの意図』による、時を跨いだ一続きの計画であり、夢も仕事もまだ終わってはいないのだと…
マルコ・ポーロフビライ汗に夢幻の如き幾つもの都市を語り聞かせる、イタロ・カルヴィーノの「見えない都市」は、或いはこの夢の系譜に連なるものでもあろうか。
(更に、ハンガリーポストモダン作家 エステルハージ・ペーテルは、「見えない都市」をパロディ化した同名の短編(「黄金のブダペスト」所収)を著しており、夢のリンクは繋がっていく)。

 

今一つ印象的なのは、グルーサック「夢うつつ」とパピーニ「病める騎士の最後の訪問」において、何れもシェイクスピアテンペスト」(「あらし」の邦題もある)の主人公であるプロスペローの台詞『我々は我々の夢と同じ布地でつくられている』が引用されていることで、この言葉はボルヘス晩年の講義録「七つの夜」の「悪夢」の回でボルヘス自身も言及しており、何か、夢と人生を考える上での結節点のようなことばなのだと改めて思った。
更に余談だが、私自身もこの言葉に憑りつかれ気味なのか、「テンペスト」は沙翁劇の中でも特に気になる作品で、新潮文庫(福田 恆存)とちくま文庫(松岡 和子)と白水Uブックス(小田島雄志)の3つの翻訳を読んだことがある。
『夢と同じXX』のXXの部分は、”材木”だったり”布”だったり”糸”だったりするが、原文は"We are such stuff as dreams are made on"らしいので、どれが正解ということはなさそうである。

 

最後に、ここまでダラダラと取り留めもないことを書いてきたことへのエクスキューズとして、ボルヘスは書物至上主義であったと同時に、読者の役割にも重きを置いていたことを述べておきたい。
それは講義録「語るボルヘス」の「書物」の回において、『書物は読者によってより豊かにされてきたのです』という表現で直接に示されているし、同書中の「探偵小説」では、文学的なジャンルというものは存在せず、探偵小説の読者が生まれたときに初めて探偵小説というジャンルが生まれたのである、と語った後で『読者が一冊の本をひもといた瞬間に、本が誕生するのです。』とまで言い切っている。
短編「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」において、”セルバンテスの原典と完全に同一のテキスト”としてリライトされた”ピエール・メナールの『ドン・キホーテ』”を鮮やかに比較註解してみせたことにも、批評家=読者の果たし得る恐るべき役割と力が示されていると考えられるだろう。

 

無限の夢のアンソロジーはまた、無限の読みの可能性に開かれているのだ。