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ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策

アーティゾン美術館
ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄鈴木理策


モーリス・メルロ=ポンティの「知覚の哲学 ラジオ講演1948年」(ちくま学芸文庫)を読み終えて、セザンヌの絵を見たい気持ちが高まっていたので訪れた。
同書はメルロの唱える「知覚の哲学」のエッセンスが語られたラジオ講演をまとめたもので、訳者により本文(講演パート)の幾倍もに及ぶ注釈が付けられており、ありがたい。
(正直これをラジオで聞いても全然わからんと思うがフランスの文化レベルが凄いのか)。


そこで語られている知覚の哲学を強引に要約すると、
身体と峻別された純粋な理性(取り分けデカルトのコギト)や、科学の方法に顕著な「超越的な観察者」といったものの措定による知覚論・認識論を批判し、〈世界内属存在〉である私たちの身体性を起点として、常に他者を含む環境との関係・コミュニケーションの中で知覚は構成される(そしてそれ=知覚は、自己がこの世界に帰属する存在様態でもある)とする、運動的な知覚論・認識論を提示するものである。
そこから、
・知覚はすでにして表現であり、芸術は表現の表現である。
・表現という機能と表現される内容は区別できない。
といったテーゼが示されるのだが(※)、メルロの斯様な知覚論における、謂わば特権的な体現者として、セザンヌの絵画表現が取り上げられている。
セザンヌが如何にして伝統的な絵画技法を超克せんと試みたか、最も顕著な点として挙げられているのは、デッサン・輪郭と色彩の区別をしないことである。対象の輪郭は「色彩の転調」であり、『色彩を塗るにつれて、デッサンも進む』というのだ。
また、輪郭に関わる問題として、遠近法の拒否がある。
無限に遠い消失点を仮定してそこから眺めた慣習的で公約数的なヴィジョンを描くのではなく、『自分の目の前で風景が誕生するまさにそのありさまを新規に捉え、表現しようと望んだ』結果としての、「表現としての知覚の表現」が目指されているのである。


※因みに話しは言語論にも及んでおり、ソシュール言語学における記号表現(シニフィアン)→記号内容(シニフィエ)の二重構造も否定した上で、「言葉は意味を体現する身体のしぐさ」だと語られている。
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さて肝心の展覧会、
セザンヌの絵画の展示は数点であったが、上述のようなことを前提として見ると、彼の画家の目指したことがよく感得されるような気がして感慨深いものがあった。
またモネの睡蓮も展示されており、水の三層のレイヤ─水面に映る映像と水面そのものと水底─を色彩を駆使して統合したとされる画面に、モネ流の見ること=知覚の実践を見る思いがした。


本題である写真家二人の作品も素晴らしく、
柴田敏雄の、地方のインフラ(橋やダム、護岸ブロックなど)をタブローとして極めて構成的にソリッドに切り取った画面や、鈴木理策の、フォーカスを浅く取ることで「見ている現在」とその先の視線の時間を立ち上がらせる画面の双方に、夢中で見入ってしまった。
特に鈴木が、セザンヌについて
『描く行為と見ることを直に接続しようとした。』
『間断なく生起する現在を誠実に画布に表すこと』を試みた
と述べていることは、上に挙げたメルロの問題意識と重なる部分が大きいと思う。

 

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