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西村賢太氏の訃報に接して(続)

西村賢太の訃報のことで、氏に先立つこと七年前に物故された車谷長吉のことも思い起こされた。


ともに平成の世に私小説のあり方を問うた異形の作家であったわけだが、一方で両者の作風はかなり異なってもいると思う。
ある意味でド直球に破滅型私小説に殉じた西村に比べると(別にこれは脚色・虚飾がないと言っているわけではなく表現の傾向の話として)、車谷にはナイーブな文学青年としての苦悩が見られるのではないだろうか。
どこまでも生な表現に降りていこうとはするものの、詩的なものへの憧憬やインテリ臭を拭い去れないことへの葛藤は、特に、実家に出戻った自身を叱責する母親の口を借りて痛切なまでに自己批判した短編『抜髪』において、作品として昇華されている。(が、西村にとっては、或いはこれも文学臭くて洒落臭いものなのかもしれない)。
自らを指して呼んでいた「反時代的毒虫」なる通り名も、思えば少し格好良すぎるような気もする。
しかしそのようなある種キャッチーな素養があったからこそ、正に直木賞に相応しい、面白過ぎるほどに面白い畢生の傑作『赤目四十八瀧心中未遂』が生まれたのもまた確かであろう。


どちらが良いかなどは全くどうでもよくて、兎も角表現の豊かなバリエーションが喪われるのは悲しいですねと言いたい。


何をおいてもまずは『赤目四十八瀧心中未遂』を読むべしと思うが、昨年中公文庫から傑作選『漂流物・武蔵丸』が出たのでそちらもお勧めです。

 

 

 

 

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