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『オートポイエーシス: 生命システムとはなにか』(2025年に読んで良かった本 4/5)

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オートポイエーシス: 生命システムとはなにか』 (H.R.マトゥラーナ, F.J.ヴァレラ 著, 河本 英夫 訳, 2025年, 筑摩書房ちくま学芸文庫〉)

 

神経生理学の研究成果から導き出された「オートポイエーシス」の構想を著し、生命の捉え方についてコペルニクス的な転回を迫った記念碑的著作
(とはいえ、具体例や論理的展開に乏しく、ひたすら定義について書かれた体裁の、とても読むのに難渋する代物でもある…)。
 
骨子を無理やりまとめると以下のようになるだろうか:
  • 生命システムは「物理的なオートポイエティックマシン」である
    • オートポイエティックマシンとは、構成素が構成素を産出するという産出過程のネットワークとして有機的に構成された機械である。
    • 自己の構成素を再生産(正確には再生産するプロセスのネットワークを再生産)しながら、システム以外からの撹乱に対してシステム内部の変数を一定に保つホメオスタティックマシン(定常的機械)でもある。
    • (「物理的な」という点について)オートポイエティックマシンとしての生命システムは、当然のことながら物理的な空間内に現実化したものである。しかしオートポイエティックマシンは産出関係(プロセスのネットワーク)によってのみ境界が規定され、またそれ(境界)が常に更新される、位相学的な空間に成立しているものであるため、物理的な空間によって機械の特性が定められるわけではない(そのように物理的な要素に還元して生命を捉えるのは、観察者による記述の領域である。この辺の論点は特に難解で自分もあまり飲み込めていない…)
      • 細胞は一次的なオートポイエティックマシンであり、生物の個体は二次的なオートポイエティックマシンである。
      • cf.自動車は自分自身の構成素を産出しない、制作者によって作られたアロポイエティック(他律的)マシンである。
      • cf.天然物質の結晶は、物理的な空間内の位置によってstaticに構成が維持されるものであり、オートポイエティックマシンではない。
そしてオートポイエティックマシンは、その構成の帰結として以下のような特性を持つ
  • 自律性、個体性、境界の自己決定
  • 入力も出力もない(閉鎖性)

特に入出力がないという点は最も驚くべきであり掘り下げて考えてみる必要があるだろう(と言いつつ私もまだそこまで分かっていないのだが)。

自分なりの理解で説明すると、システム外からの撹乱自体はあるが、撹乱の吸収は、飽くまでオートポイエティックマシンが自己の再生産(産出関係)のなかで変数を閾値内に保ちながら自己の境界を決定しているに過ぎず、生命システムの内的な規定・動作からみればインプットもアウトプットもない、ということなのだと思う
(そして観察者が外部からアロポイエティックなマシンとして観察した場合には、環境と生命システムの相互作用的な入出力関係として記述する、こともできる)。
 
最後に「結局この考え方の何が嬉しいの?」と思われるであろう向きに幾分かの補足を試みておきたい
(そしてここでも/またしても「デカルトの誤り」的な観点*1に触れざるを得ないわけである。デカルトは斯くも偉大な哲学者なのだ!)。
近代以降、生命を「外部から観察可能で入出力のある開放系のシステム」であると捉えることで、医学や生命科学が飛躍的な進歩を遂げたことは疑いのない事実である。
しかしその一方で、生命に対する機械論的な見方や目的論的な見方が行き過ぎたことによる負債、とりわけ倫理的な観点でのそれが蓄積していることもまた確かな事実と言えるのではないだろうか。
合理性のもとに取りこぼしてきたものを再考し、生命をその内的なダイナミズムに立ち返って捉えることは、生命倫理や、引いてはAI倫理にとって決して無駄にはならない/疎かにしてはならないことだと私は思う
(まぁこれだと我ながら漠然としすぎなので一つだけ具体的な論点を挙げておくと、「システムを閉鎖して他者に対する評価関数を隠蔽した方が安定した中枢が生まれやすくなる」というのがある。関連書籍に挙げた西川アサキ氏の著書や『集合知とは何か: ネット時代の「知」のゆくえ』(西垣 通 著, 2013年, 中央公論新社中公新書 2203〉)を参照のこと。開放系として見ていては捉えられないオートポイエティックなシステムの特性(或いはそう言いたければ利点)の一つだと言える)。
 

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