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【書評】ゼノン 4つの逆理 アキレスはなぜ亀に追いつけないか (講談社学術文庫) /山川偉也

2020年に読んだ本で面白かったもの(その2)
 
ゼノン 4つの逆理 アキレスはなぜ亀に追いつけないか (講談社学術文庫) /山川偉也
アキレスと亀」で特に知られる所謂「ゼノンのパラドックス」について、詭弁や知的遊戯の類などでは決してなく、我々の依って立つ近代以降の知性の基盤に対して、如何に深甚な問いを投げかけているものであるかを、四百頁近くの紙幅を割いて追求した労作。
 
まずはゼノンの唱えた四つの逆理を詳述した後(どういうものであるかは後述する※)、それらが本当は何を意図して唱えられたものであるかを明らかにしていく。
曰く、ゼノンの逆理はすべて、師であるパルメニデスの論敵であったピタゴラス派の<多>の理論を否定するためのものであった。〈多〉とは(無限に)分割可能な「点」や「時点」によって構成される「距離」や「時間」のことであり、ゼノンは「アキレスは亀に追いつけない」ことを言いたかったのではなく、「存在するものが〈多〉であるならば、アキレスは亀に追いつけない、しかるに、存在するものは〈多〉ではない」と言いたかったのである。
 
例えば運動というものについて、「t0時点にはp0地点にいた」「t1時点にはp1地点にいた」…これをいくら(たとえ無限に)細かくしていったとしても、運動そのものを捉えたことにはならないのではないだろうか。
しかし、ピタゴラス派から近代(デカルト心身二元論/コギト、分析的知性の象徴たる「パスカルの眼」)、現代に至るまで、科学的・分析的知性というものはこのこと(分割可能な空間とそこにマッピングされた時点/時−間)を前提している。
 
斯様な知性は実在の真の姿ではなくその「影」を捉えているに過ぎない─このことを指摘すべくゼノンの立てた反論は、現代フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの科学批判や、「持続の相の元に」真に実在を認識しようとした彼の哲学と位相を同じくするものである。
ベルクソンは『物質と記憶』の中で、ゼノンの逆理を引いて「等質で分割可能な空間と、時間の空間化を前提している」と批判するが、これは不当な批判であって、ゼノンは寧ろベルクソンと同じ立場に立って、ピタゴラス派を論難していたに違いないのである!
 
といった、紀元前から現代までを股にかける刺激的な論考が展開されており、著者の時に熱の入りすぎた語り口にも乗せられて、大変面白く読んだが、私の所感を述べると、
・科学的な成果=真理の発見と単純に考えてしまいがちだが、それはやや素朴に過ぎる見方かもしれない
・紀元前の哲学者は(も)凄い。深甚なことを考え抜いている。「存在」や「時間」について、現代のわれわれの理解は何ほど進歩したといえるのか
といったところです。
 
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※この本はもともと放送大学で受講した科目「西洋哲学の起源」の中間課題のために読んだもので、この本を大いに参考にしてゼノンの逆理をまとめて提出したのが下記の文章になります。
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エレアのゼノンの運動否定論について要点を述べる。
ゼノンがとなえたとされる運動否定論は4つの議論からなる。
但し、これらの議論について、ゼノンが直接書いたものは残っておらず、(彼の言説には否定的であった)アリストテレスの『自然学』に報告の形で現存するものである。
以下にそれぞれの議論の概略を記す。
1.「二分割」
「動くものは終点に達する前にその半分の地点に達しなければならないので動かない」とするものである。
「半分の地点に達し」について、全行程の半分の地点(1/2)を想定し、さらにその半分ずつ(1/4、1/8…)への到達を想定する無限後退型の解釈(この場合は出発すらできないことになる)と、全行程の半分の地点への到達から、さらに残りの距離の半分の地点(3/4,7/8…)への到達を想定する無限前進型の解釈が存在する。
2.「アキレス」
後に「アキレスと亀」の呼び名で特に知られるようになった議論で、
「走ることの最も遅いものですら最も速い者によって追いつかれないであろう、何故なら追いかける者は、まず最初に、逃げる者が出発したその地点に到達しなければならず、したがって必然的に、逃げる者がたとえ最も遅いものであっても、つねになにほどかは先んじていなければならない」とするものである。
t0 時点で A地点 にいた亀を追いかけるアキレスが、t1 時点でAに到達したとき、亀はA地点よりいくらかは進んだB地点におり、次にt2時点でBにアキレスが到達したときには亀はC地点におり、と、無限に距離は縮まるかもしれないが決して追いつくことはない、という議論である。
3.「矢」
「すべてのものはつねに静止しているか動いているかであり、自身に等しいものに即してあるときは何物も動くことがない。しかるに動くものはつねに、今、等しいものに即してあるとするならば、動く矢は不動である」とするもので、あらゆる動きを封じるものである。
4.「競技場」
「競技場において等しい物体列の傍らを、たがいに反対方向に等速度で運動する物体において、半分の時間が二倍に等しくなる」という議論。元テクスト自体が不安定で解釈の分かれるものである。
これらの議論について、二千五百年以上の永きに渡って種々の数学的、アルゴリズム的な説明や反論が試みられて来たが、哲学的な側面として忘れてはならないことは、ゼノンはこれらの議論を、師であるパルメニデスの称えた、不生不滅を旨とする存在論「『有る』は一つである」を擁護するために、「多」の理論、「運動」理論への反論として行なった点であろう。
理論やロゴスによる抽象的な議論を通じて、時には経験的な常識を疑い(思い込みを抉りだし)、それを越えて存在について問い直す、根源的な問いかけの(或いは終わりなき)はじまりの一つとして、今日に至ってもなお意義を持つものであると考えられる。