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【書評】意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫) / 井筒 俊彦

2020年に読んだ本で面白かったものを幾つか紹介します(たぶん5回シリーズ)
昨年は以下の理由により、例年よりも本を読む時間が減ってしまいました。
放送大学に入学した(といっても半期で二科目ずつしか取ってないですが)
・ほとんど自宅勤務となって、(読書時間に充てていた)通勤時間がなくなり、始業前ギリギリまで寝ている&終業後はすぐ酒を飲んでしまう
その割に体調万全というわけでもないので、、健康には留意して、いい感じで本が読めるペース配分を考えたいと思います。
 
閑話休題して一冊目の紹介に移ります。
 
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫) / 井筒 俊彦
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

 

 

東洋哲学の「共時的構造化」を期して書かれた、井筒の主著(井筒自身の前書きでは「序論のそのまた序論」だそうであるが)。
(他の著作でも語られているように)余りにも「ロゴス中心主義」であった西洋哲学に対するカウンター ─或いはオルタナティブ─を志した、壮大な試みがなされている。
オルタナティヴとしての可能性について、例えば井筒が述べているのは、サルトルのいう「嘔吐」的事態─言語脱落・本質脱落が起き、絶対無分節の「存在」に向き合った際に、成すすべもなく狼狽するしかないそれ─に際して、東洋哲学の精神的伝統ならば対処し得るということで、何故ならば斯様な絶対無分節の「存在」に対する準備が方法的、組織的になされているからだ、というのである。
ーー
(極めて広範にわたる思想の比較検討がなされておりアウトラインをまとめるのは困難であるが、本書のエッセンスを雑にサンプリングして示すとすると)、
まずは本質というものについて、イスラーム哲学から用語を借り、
個体的本質(「そのもの性」、フウィーヤ)、普遍的本質(マーヒーヤ)の二種類を立てて、各所・各種の東洋思想におけるそれらへのスタンスを詳らかにしていく。
個々の事物の(複数の)本質を一つずつ把握していき、それを或る段階で一気に垂直に深め、万物の普遍的「本質」の自覚へと至ろうとする宋需(中国宋代の儒者たち)の「格物窮理」の営み。
対して、徹底して本質の実在を否定する禅における、分節された事物から無分節の「意識のゼロポイント」への到達、さらにそこを経て無「本質」的に分節された事物への回帰(或いは再入ともいうべきか)─ 意味分節の道具としての言語に対する根深い不信感を持ちながら、しかし言語を用いてそれを果たすというアクロバットさ!
 
普遍的本質へと向かう言語を追求したマラルメ(詩人)と、飽くまでも個物の本質を捉える言語を希求したリルケ松尾芭蕉もまたそうであった)との対比。
 
果ては、「元型」イマージュの相互聯関システム=「本質」的全体構造としてのマンダラ(曼荼羅)を取り上げ、ユダヤ教・カッバーラーのセフィーロートもマンダラの一つである!として、その「元型」流出的構造を読み解く。
 
などなど、「共時的構造化のための範型化」の名のもとに、時・空間を超えて明晰且つ刺激的な論考が繰り広げられている。
「本質」の捉え方やそれへのアプローチには様々あれど、冒頭にも触れたように、やはり無、無意識、無分節の領域との聯関においてそれを捉えようとする点において、東洋哲学の根柢に流れるものを感じることができるように思う。